水の東西
教材観
水について東西、つまり東洋と西洋の比較文化論である。これが南北なら経済問題になる。
東の代表が「鹿おどし」、西の代表が「噴水」である。東の鹿おどしは、1)流れる水、2)時間的な水、3)見えない水である。西の噴水は、1)噴き上げる水、2)空間的な水、3)見える水である。1)は水の動く方向である。東は横方向、西は縦方向である。2)は感覚である。東は時間的、西は空間的。3)も感覚である。東は時間的だから目に見えない、西は空間的だから目に見える。
第一段落(1〜4)
まずは、「鹿おどし」の仕組みと感じさせるものである。鹿おどしの仕組みは、竹のシーソーの一端の水受けに筧の水がたまり、いっぱいになるとシーソーが傾いて水をこぼし、水受けが跳ね上がるとき竹が石を叩いて音を立てる。感じさせるものは、単純で緩やかなリズムの無限の繰り返し、曇った音、静寂と音の間隔が時間の長さから、人生のけだるさであり、流れるものである。それは水の流れでもあり時の流れでもある。
ニューヨークにも鹿おどしはある。日本の古い文化に興味があるからであろう。しかし、多忙なせいか、噴き上げる華やかな噴水の方が水の芸術としてくつろがせる。
流れる水と、噴き上げる水。
第二段落(5〜6)
欧米では広場のいたるところに噴水がある。風景の中心になっている。噴水は壮大な水の造型として、バロック彫刻のように、音を立てて空間に静止している。
時間的な水と、空間的な水。
第三段落(7〜10)
日本の伝統の中には空間的な水の芸術であるし噴水はない。人工的に庭に水を巡らして水の見ることを好んだ日本人が噴水を作らなかった理由は、水に対する伝統な感性である。では、噴水を作らなかった伝統とは何か。
西洋で噴水が作られた理由は,空気が乾いていて噴き上げる水を求めたり、水道技術が発達していたりという外面的な事情であった。日本にはそういう外面的な事情はなかった。空気は湿っているし水を噴き上げる技術もなかった。それだけでなく、内面的な理由がある。西洋人にとっての水は圧縮したりねじ曲げたりして人工的に造型する対象であるのに対して、日本人にとっての水は自然に流れる姿が美しいと感じる対象である。
日本人は形がないことについて独特の好みを持っていた。それは、自然の動きのままに行動するという「行雲流水」という仏教的な言葉で表せる思想以前の感性である。つまり「伝統」である。思想は理性の問題であるが、伝統は感性の問題である。感性は外界に対する受動的な態度というより、積極的に形なきものを恐れない心である。
見えない水と、目に見える水。
第四段落(11)
流れを感じることが大切なら、水を実感したり水を見る必要はない。音を聞いて間接的に味わえばいい。そういう鑑賞行為の極致が鹿おどしである。
指導観
論理的な思考力と批判的な思考力を付ける。
大枠として、東西が反対概念の組み合わせである。対立概念を取り上げることによって両者の比較をしながら、一方の理解を深める効果がある。その際にいくつかの観点に基づいて対比する。その観点が何であるか、なぜ違いが生じるかを考える。他の組み合わせを考えさせる。発想の拡散である。
日本=見えない水 | 西洋=見える水 | |
外面的な事情 内面的な理由 | ・空気が湿っていて、噴き上げる水 を求めなかった。 ・水道技術が発達していなかった。・水は自然に流れるのが美しい =自然 ↑ ・伝統 ‖ ・独特の好み ・思想以前の感性 ・行雲流水 ・形なきものを恐れない心 ↓ ・流れを感じることが大切 ↓ ・水を見る必要さえなくなる。 ・断続する音をの響きを聞いて、 間隙に流れるものを心で味わう。 ‖水を鑑賞する極致の仕掛け ・「鹿おどし」 |
・空気が乾いていて、噴き上げる水を求めた。 ・水道技術が発達していた。 ・水は圧縮したりねじ曲げたり、造型する対象=人工 |